田辺聖子を読んでいく記録

田辺聖子の著作を読んだ感想とかを書く

海辺の別荘を持った男が好きなのか:「夜あけのさよなら」メモ

田辺聖子(1977)「夜あけのさよなら」

www.shinchosha.co.jp

初出は19677年だけど読んだのは2010年清流出版のバージョン。

清流出版は該当ページがなかったのでリンクは新潮社のもの。

以下ネタバレあります。

1. 感想

 若い女子が同年代のダメ男子とお付き合いしていて,彼氏は本当にダメで,でも私は彼といると彼のことが本当に好きなんだなって思うの……みたいな話である。

 けれど彼氏のダメなところも十分理解していて,この人と一緒にいて良いのだろうかというふんわりした不安を持ってもいる。だから会社の未婚の男性陣が誰それと良い感じだとかデートに行っただとか,そういう話題にもアンテナを張っている。そんな中で大人の男性に出会って海沿いの花畑のある別荘に誘われて,その素敵な洋館ごとその男性が欲しくなってしまうのである。

 若い女子の移り気の多さ,複数の男性に自分を取り合って欲しいという我が儘さ,大人の男性のゆったりした立ち居振る舞いと素敵なものを所持できる財力にあっという間に惹かれてしまう未熟さ,そういうのが嫌みなく納得できるように書いてある。2020年代に読むとなんて傲慢で我が儘で考え足らずな女子なんだと思う人もいようが,初出が77年だからその時代の女子の価値観や社会規範を想像すれば主人公の思考や行動の理由はよく分かる。それが45年経った2020年代でもしっかり分かるように表現されているのがすごい。

 あと「海辺の別荘を持つ年上の男性」ってモチーフ田辺聖子の他の小説でも合ったと思うんだけど(のりこ三部作?),田辺聖子はこのモチーフ好きなんだろうか。若い女の子が憧れる対象としてデザインされているのはよく分かる。

 

2. 表現メモ

※ページ数は清流出版の2010年版

  • 出だしからしてダメ男子に会う前に憂鬱になっている主人公。ここでダメ男子がダメである(憂鬱である)ことが印象づけられている。すごい。
  • 他の男子学生を思いっきり腐すことで主人公が優に盲目的に恋していることが伝わる。でも若い女の子だから許される悪口。

男くさい,殺風景な校舎を背に,優はたいへん美しく見えた。ほかにもうろうろしている学生はいっぱいいたけど,ロクな男はいなかった。みんな卑しげな,心変りしやすそうな,あるいは馬鈴薯をつぶしたような男に見えた(p. 10)。

  • 説明の地の文の中にしれっと回想が入ってきて,台詞が「」で普通に入ってくるのは田辺聖子のスタイル。時間が行ったり来たりするのに読みやすいのは,主人公の思考の流れベースで物語りが進んでいるという大前提が揺るがないからか。
  • 相手の声に好意を抱いていることは,好意を抱いていない声と単純に比較する。上の優の外見比較と同じ。ゴリガンて何?

が,かといってわたしの父のように何が何でも自分のいうことに従わせようというゴリガンな,むやみやたらと頑固な力にみちた声ではなくて,もしそちらに,違う意見があれば,気の済むまで聞きますよという声なのだ(p. 60)。

  • 好きになる前からはっきり魅力があると主人公に言わせている。

何ともいえないオトナの魅力みたいなものがあって,そのスキのない身ごなしといい,やさしげで力強い態度といい,わたしには,まだ知らない,ヘンな魅力だった(p. 72)。

  • 物語が動いているとき,動詞(be動詞も)は過去形,形容詞や形容動詞は現在形。物語が終わる(オチ,結論,クライマックス)ときに動詞が現在形になる。
  • 恋とはこうあるべき→この人といるとこうなる→だから私はこの人に恋をしている,という論法を使って主人公が自分の恋心に気づいている。田辺聖子の主人公は恋の最中でも自己分析ができる。でもその分析は客観的に妥当ではない場合が多いので,読者はこの主人公が恋に狂って冷静さを失っているのだと気づく。
  • 主人公は彼の浮気を直感的に気づく。「理由はないが直感的に気づいた」と書けばその直感の中身を作者は説明する必要がない。
  • 自分で言って自分で驚いている表現は,台詞→自分の体の反応→驚いているという認識,の順番。

「あの,……ほんとに好きなんです,あたし」

 といったら,ふしぎや,自然に頬が赤くなって,目が熱っぽくなってきた。

 自分でいって自分でびっくりしているくらいだから,(後略)(p. 164)

  • 好きという気持ちは唐突に実感してもいい。どんなタイミングでいつ入れてもいいものだ。
  • 嫉妬もまたしかり。
  • 相手の自分へのケアに感動する,好意や愛を感じることもある。傘を差しだしてぬれないようにすることもひとつ。